|
願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ 西行(さいぎょう)、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人で、生前に上の歌は詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれています。享年73。 西行は、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となり、西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいたようです。 北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価され、また武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人であり、さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける名手でもあったようです。 武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえており、文武両道で美形。華やかな未来は約束されていましたが、西行は「北面」というエリート・コースを捨て、1140年、22歳の若さで出家したようです。 出家した動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流ですが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとあります。 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとあります。 この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられます。 出家直後は郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移った。 西行は長く煩悩に苦しんでおり、いわゆる「聖人」じゃなかった。彼は出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めています。 いつの間に 長き眠りの 夢さめて 驚くことの あらんとすらむ 鈴鹿山 浮き世をよそに 振り捨てて いかになりゆく わが身なるらむ 世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都はなれぬ 我が身なりけり 花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に |
|
|||
Copyright (C)2015. 古歌・辞世の歌・禅の言葉・名言・格言から生き方を学ぶ All rights reserved. |