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源義経・・「辞世の歌・句」により、人生が一変



   後の世も
     また後の世も 廻り会へ
         染む紫の 雲の上まで




1159年、源九郎義経は源義朝(よしとも)の九男、母常磐御(ときわ)前との間に生まれる。
常盤(ときわ)との間にできた子供は3人で、それぞれ今若、乙若、牛若と名付けられ、義経は幼名牛若と呼ばれた。

幼き頃に京都鞍馬山の鞍馬寺に預けられ、名を紗那王とされた。やがて自分が源氏の一人であることを知り武術に熱を入れる。
このころ、夜な夜な寺を外出し五条大橋の上で武蔵坊弁慶と戦ったなどの伝説が残る

後に鞍馬寺を脱出、奥州藤原秀衡の下へ向かう。
奥州平泉で過ごした後、義経は兄頼朝が挙兵したと聞き頼朝の下に駆けつけ、頼朝とともに平家と戦い勝利。
後の壇ノ浦の合戦では平家を滅亡させる原動力となる。

平家を一ノ谷合戦で破り検非違使の任官を受けるが、そのことで兄頼朝の怒りを買い追討される。
藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びるが藤原秀衡の死後、嫡子泰衡により攻められて衣川館で自害。
享年31歳だった。

衣川事件では、泰衡の命をうけた長崎が義経の御所衣川に討って出る。
その数三萬騎。
義経側はわずか十人。
鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎が殺害され、弁慶と片岡も喉笛を打裂かれ、身体じゅう矢だらけとなり、馬に寄りそうように倒れ失ったということです。

そのときの辞世の句が次のようであったといわれています。

 
『六道の 道の巷に 待てよ君
   遅れ先立ち 習いありとも』

 と弁慶が辞世の句

 『後の世も また後の世も 廻り会へ
     染む紫の 雲の上まで』

 と義経が自害の直前に弁慶に贈ったということです。





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