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★ 趣旨 どんなに努力しても、どれほど善行を積んでも、それが果報(功徳)を期待したものであってはいけないという意味です。 報酬を期待して行動するのは、今すぐやめましょう。 「無功徳」という言葉が、禅の言葉として使われるようになったのは禅宗の祖、達磨(だるま)大師(生没年未詳。5〜6世紀の人)と中・梁(りょう)の武帝が問答をした際の、達磨大師の言葉からといわれています。 武帝も人々から仏心天子と呼ばれるくらいに仏教への造詣深く、自らも仏典を著すほどで、仏法の興隆へ寄与した方であった。その武帝がインドより大変偉い聖者が来たということを知り、直ちに達磨を宮中へ招き問答に及んだ。 「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、 僧を渡すこと挙げて記すべからず、何の功徳か有る」 達磨応えて曰く「無功徳」 達磨大師がいう「無功徳」とは、たとえ善事善行をなそうとも、あれもした、これもしてやったと果報を求めたり、見返りを求めて行う打算的善行は真の善行ではないと諭したのです。 つまり信心、信仰はご利益を求めて行うものでなく、喜捨奉納も功徳を求めて施すもの ではなく、真の信仰は、自らの見返りのない無心にして真心からの施し、神仏へ絶対帰依心による祈りであり、施しであるのです。 功徳とは、今でいう報酬やご利益、果報のようなものですが、自分の行いや努力、そのすべては報酬のため、果報のためという人もいます。 仏教には、善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)という教えがあります。 良い因は良い結果を招き、悪い因は悪い結果を招くというものですが、達磨大師はこのとき梁の武帝に対して、とくに偽善的な善行は、けっして功徳の見返りを期待すべきものではないと諭したのでしょう。 私たちも、すべての行いや生き方に見返りを求めることはやめましょう。 打算でものごとを判断したり、偽善的な態度でいると身を滅ぼしかねません。 大切な友人をなくさないようにしましょう。 |
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