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★ 『測られざるの数(すう)を怖れて徒(いたずら)に巫覡卜相(ふげきぼくそう)の輩に頭(こうべ)を垂れんよりは、知るべき道に従いて古聖前賢(こせいぜんけん)の教えのもとに心を安くせんにしかじ』 巫覡卜相とは、神に仕える巫女や易者のこと。 これはいつの時代の誰の言葉かは分かりませんが、人間、誰しも予測できない未来の運命や運勢について、宗教家や易者のたぐいの連中に、「ははあ、わたしの未来はそのようになっていますか」 「分かりました、分かりました。仰せの通りです」 などと、その実、本当は分かったような分からないような複雑な気もちと神妙な顔をして、それらの人の前に恭しく頭を下げていたりします。 そんなことよりは、知ろうとしたら誰でも知れる古聖前賢(昔の聖人と中世以降の賢人)が書き残してくれた人類的遺産とも言うべき立派な教えをよく理解することによって安心と自信を取り戻し、未来に向かって心強く生きていくほうがよほどましであるとの意です。 孔子が生きていた当時のある役人の一人が、 「民生上のことは孔子に聞くより日々、多数の人々の実際上の相談にのっているわれわれに聞く方がよい。なぜならわれわれの方が、よほど実務的に適切な助言を与えられるし、最適の方法を講じられるからだ」 と言った人がいたとの逸話があります。 またわが国でも江戸時代の中ごろに、 『こちを頼むよか あちらを頼め ゼニの百文も よけい儲けられる』・・古歌 こち(こちら、この場合、神社仏閣に祭られている神仏)に祈ったり頼んだりせずに、あちら(俗世間の得意先、つまり良い人間関係で結ばれている人とか、商売上の相手)の気に入るようにつとめる方が、ゼニの百文でも余計に儲けられてマシである・・。 と歌った人がいましたが、よく考えてみると、これはまことに的を得た見識のある言葉です。 人間は平素は強がりを言っているように見えても、それはただ単に外見上だけで、内心ではいろいろと迷いを持っていたり、つまらぬ取り越し苦労をしたりして、常に煩悩に責め苛まれているものです。 だから、つい、叶わぬ時の神頼みではありませんが、神仏に祈ったり宗教家や占い者のもとに走りがちな気持ちは分からないでもありませんが、それではいつまでたっても根本的な解決にはならないでしょう。 まして、モノとカネばかりの情報が満ち溢れている混迷の現代ですから、いま一度、精神の安定と精神文化の向上につき、全員が考えなければならない時期にいるのではないでしょうか。
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