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★ 『善悪の 映る鏡の 影法師 よくよく見れば 我が心なり』・・・古歌 幼いときに自分の影を踏んだり追いかけたりして遊んだ思い出は誰にでもあるでしょう。 いつのころからか呼ばれるようになったのか知りませんが、影法師とはよく言ったもので、なぜかしら自分の影にロマンのような懐かしさがうかがえ、とりわけ夕方のころの長い影法師にえもいわれない郷愁を感じ、暮れかかった野原や公園で時がたつのを忘れて、いつまでも夢中になって友だちと影の踏みっこをするとか、自分で自分の長い影の、それも頭部分を追いかけ遊びほうけていたものです。 しかし、こんな影も別の面からすると、私たちの目に見えない自分の心を映し出すひとつのものだとして、この歌があります。 影とは本来、実なるものを忠実に投影していますが、この世では実なるものが必ずしも実際の実ではないので、影を見て実なるものと早合点してはいけません。 むしろ世間で実なるものとされているのは、本当は実ではないのです。生命だって今日あって明日が知れないのですから、この世の実ほど当てにならないものはありません。 天地造化の妙なる作用は無から生じて有になり、有は化して無に帰る点からすると、実相世界でいま見るこの実は、すべて虚であるともいえるでしょう。 ですから影法師が必ずしも自分の実なる表面的・外見的な姿の影ではなく、目に見えない心の姿の投影であると捉えたのがこの歌の真意といえます。 ★ 『善悪の 人の見る目は ありながら わが身の上は 烏羽玉(うばだま)の闇』・・・古歌 人間には誰にもひとしく善悪を見分けられる目というものを天から授けられていますが、それが自分のこととなると、ちょうど烏羽玉(ヒオウギという植物の種、丸くて黒い、転じて真っ暗)の闇に入ったようにサッパリ分からない・・・。 人間はこの歌のように抜け目なく他人を見る目を持っていても、自分自身に対しての目はしごく怪しいものがあります。 そこのところを善悪二種にわけて影を映し出してみると、自分は良い、自分は悪いことをしていないとばかり思っていたのが、あにはからんや、自分は良くない、自分には悪い面が相当あると出たものです。 ★ 『気もつかず 目には見えねど いつのまにか 埃(ほこり)たまるは 袂(たもと)なりけり』・・・古歌 人は誰しも自分からすすんでポケットに埃を入れる人はいません。埃とはもともと入れた覚えがないのにいつのまにか密かに入っているもので、これと同じように誰しも自分が知らず知らずのあいだに悪を積んでいるとは思っていません。 しかしそれはあくまで表面的・外見的であって、誰しも「私に限って、そうではない」とは言い切れないはずです。
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