|
私たちは、たとえどのようなタイプの人でも人間であるかぎり、高い意識や美しい人格の完成に深い憧れの念を持っています。 それは私たちがそのように創られているからで、この念はなにも私たち日本人だけのものではなく、この地上に生きるすべての人類に埋め込まれています。 人間が万物の霊長といわれる優れた点はいくらでもありますが、その中でも独自の言語を持ち、独特の抽象的思考ができるところが他の動物とずば抜けて異なる点です。 このことは反面、次のようにも言えます。つまり高い意識や美しい人格の完成への憧れの心を持たない人は人間失格ということです。 人格の完成といえば難しいように聞こえますが、そんなに遠くにあるものではなく、身近なところにあり、日々の相手に対するわずかな思いやりや暖かい心根の中にあるものです。その積み重ねが人格の完成に近づくのです。 ですが、私たちはいつでも、つい我知らずして相手の心を傷つけ苦しめています。だからこそ、よりいっそう、自分が多くの人から許されていることを自覚しなければなりません。自覚とは指摘を受けてのち悟るものではなく、静かな反省や謙虚な自省の念から自然に出るものでなければなりません。 ★ 『よいことはせよ、悪いことはするな』・・・古言 昔、白楽天が旅の途中、禅寺に立ち寄り、住職に、 「仏法の奥義を聞かせてください」と言ったそうです。住職は、 「よいことはせよ、悪いことはするな、が仏法の奥義です」と答えた。 聞くより早く恐ろしい剣幕で白楽天は、 「そのような七つの子でも知っていることを聞きたいのではありません。真実の仏法の奥義を知りたいのです」と相手に迫った。住職は静かな口調で、 「七つの子でも知っている平凡なことを、七十のこのわしができないんだ」 とカラカラ笑ったそうです。 彼は真理はそのような遠くにあるものではなく、日ごろの身近なところにあることに気づき、恐縮して寺をあとにしたと今に伝えられています。 この頃、ちょっと変わったことを言ったり何かをすると、すぐ、 「宗教やってんの」と聞かれるらしい。 宗教とは本来、宗(もと)なる教えであるはずなのに、このような日常用語として簡単に人の口に茶化してのぼるようでは、宗教も地に落ちたものというべきではないでしょうか。 この逸話によりますと、人間は悪いことをしなければそれでよいというのではなさそうです。つまり、よいことをしなければならないのが人間で、悪いことをしないかわりに、よいこともしない人間では、少なくとも万物の霊長としての値打ちがあるといえるのでしょうか。 もの言わぬ獣の世界に騙しあいや争いがなく、言葉を持つ人間の世界に醜い争いやもろもろの悪があるのは、とても悲しいことであります。 過ちはついつい犯しやすい。 よいことはわかっていても、なかなか実行しにくい。 人間とはなんと皮肉に創られているのでしょうか。 しかし、してはいけないことはしてはいけないし、しなければならないことは、やはりしなければなりません。それは世の中というものが、それでキッパリと埒があいているからです。
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Copyright (C)2015. 古歌・辞世の歌・禅の言葉・名言・格言から生き方を学ぶ All rights reserved. |