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現代はとにかく柔弱な考えが横行し、外見にしても考え方にしても、男女の区別すら分からなくなってきている感があります。いかに男女同権だといっても、当然、男は男としての、女は女としての役割分担があり、この基本を逸脱しては本来的な人間の幸福はないはずです。 なぜなら、人間は理性や知性を具えているとはいえ基本的には動物の一種であり、動物の一種であるなら他の動物の世界にも目を向けて考えてみる必要があるからです。 動物の世界で雄の立場はどのようなものか、雌の立場はどのようなものかを明らかにし、その本来的な姿に帰ってこそ、人間の本当の幸せがあるのではないでしょうか。 ★ 『辱ずべくんば明眼の人に羞ずべし』・・・古言 自分の言動の規範とするべきものは立派な人の言葉や行動に羞じるところがないかどうかによって決するべきである。いやしくも利益中心に考えたり、視野が狭く教養がない人たちに人気を得ようなどと思って行動するのは愚の至りと心得るべきである・・・。 人生航路はいつも順風満帆ではありません。 したがって、逆境に敢然と立ち向かうだけの粘り腰が必要で、その粘り腰のバックボーンになるものが堅い決意とそれを支える強靭な志です。ではその強靭な志は何によって自覚できるかというと、常に明眼の人に羞じよという客観的冷静な物差しによる自分への問いによって分かる。この明眼の人に羞じる心が王陽明をして「君子は独りを慎む」といわしめました。 つまり、人間は人前では口は重宝なものだから、どのような立派なことも言えますが、たった独りになったときは、どちらかというと潜在意識の中の性悪な部分が出てきます。 この性悪な部分の最たるものが自分の利益や保身のために極端な場合は相手を殺す、相手を陥れる、相手をたばかるなどの実行しないまでも妄念となって顕れることがしばしばあります。 もちろん、性善説としての困った人を見れば、同情するとか弁護するとか金品をほどこすとかの崇高な部分もいっぱい持っていますが、白(善にたとえる)と黒(悪にたとえる)を半々に混合すると濃いグレーになるところからしても、どうしても悪性のほうが強く出るものです。 ★ 『奇計はめったに功を奏しないし、人真似では人の先頭に立てぬ』・・・吉川英治 正攻法ばかりが良いとはいえないが、さりとて奇策ばかりで勝利を得られるものでもない。それを考えるならば自分に十分な実力と経験がないものが、どうして人の真似をして成功することができようか・・・。 葉隠聞書の一節に、 『今時の奉公人を見るに、いかう低い眼の着け所なり。スリの目遣いの様なり。大かた身のための欲得か利発だてか、又は少し魂の落ち着きたる様なれば身構えするばかりなり』・・・山本常長 いまどきの勤め人(勤務者・サラリーマン、ここでは若い人)を見ていると随分、目のつけどころが低いように思われる。まるでスリのように常に損得だけを考えているような目遣いをしているではないか。このようなものはおおかた自分一個人の立場でつとめているのであろう。 あるいはそのような目つきが格好よいと思っているのであろうか。なんともはや嘆かわしいことではある。そして少し落ち着きがあるなと思われるヤツは、変に着飾ってばかりいるではないか・・・。 葉隠は今から約300年も昔に九州鍋島藩の山本常長の話を田代陣基が筆録したものですが、この時代にすでに若者の目つきがスリのように低いところばかりに目をつけているのを嘆いていて、いかにも志の低い現代人にそっくりではないでしょうか。 老子の言葉に、「上士は道を聞かば勤めてしこうして之を行ない、中士は道を聞かば存するが如く亡するが如し、下士は道を聞かば大いに之を笑う」とありますが、道理がしっかり分かっている人間は道理にかなう言葉を聞けば勤めてこれを行おうとするのに対し、つまらぬ人間は、「何がそのようなことがあるものか」と大いに笑うと言っています。 いまの若者たちがこの言葉をなんと聞くでしょうか。
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