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★ 『仏々祖々、皆、もとは凡夫なり。凡夫のときは必ず悪業もあり悪心もあり、鈍もあり痴もあり、しかれども皆、改めて知識に従い教行(きょうぎょう)に依りしかば仏祖となりしなり。今の人もしかるべし、わが身愚かなれば鈍なればと卑下することなかれ、今生(こんじょう)に発心(ほっしん)せずんばいずれの時をか待つべき、好むには必ず得べきなり』・・・道元 仏祖といわれる立派な人も始めはみな凡夫で、凡夫のときには悪業もしたし悪心も抱いていた。また鈍な人も馬鹿な人もいたが、誰もが改心して、優れた人に従い、教えに素直に従ったればこそ仏祖となられたのである。 今の人もこれに変わらない。自分は愚かで鈍な人間だと卑下する必要は少しもない。それよりも今すぐ修行に励まなかったら、いったいいつから修行するのか、その気持ちがあれば必ず会得できるのである・・・。 ★ 『一期の命分(みょうぶん)具足す、奔走することなかれ。釈尊遺付(ゆいふ)の福分あり、諸天応具の衣食(えじき)あり、また天然生得(しょうとく)の命分あり、求め思わずとも任運としてあるべき命分なり。たとい走り求めて財(たから)を持ちたりとも無常たちまちに来たらん時、如何(いかん)。故に学人はただ、宜しく余事に心を留どめず、一向に道を学すべきなり』・・・道元 人間、誰にでも一生の食い扶持は備わっているので、それを求めようと奔走する必要はない。それに釈迦が残してくれた福分もあるし、神仏から授かる衣食の徳もあるし、それぞれ生まれつきの生命力もあるので心配することはない。 それよりある日、突然、死亡したら、それこそどうするのか、だから修行者は余分なことに心を使わず、学業に専念するべきである・・・。 道元はこのほかに ★ 『学道の人は後日を待って行道(ぎょうどう)せんと思うことなかれ。ただ、今日今時(こんじ)を過ごさずして日々時々を勤むべきなり、身の病者なれば病を治して後によく修行せんと思うは無道心の至すところなり。四大和合の身、誰か病をなからん。古人必ずしも金骨(きんこつ)にあらず、ただ、志の至りたれば他事を忘れて行ずるなり。大事、身に来たれば小事は覚えぬなり。一生窮めんと思うて日々時々を空しく過ごすなかれ』とも言っています。 これは勉強しようと思う人は、明日があるから何も今日中にしなければダメでもないさとおも思うて日々を送るのはいけないことである。今日とか今の時刻とかをのんびり過ごさずに今日しかない、今の時間しかないと思うて、それこそ一分一秒たりともおろそかにせずに頑張らなければダメである。 自分は今、病気だから病気が治ってから後でしっかり勉強すればよいとなど思うのは、もともと道心がないからである。吐く息、吸う息によって保たれている人間は生身の身体であるから、こまかく言えば誰にでもなんらかの病気はある。昔の立派な人も、もともとは人間、何も金鉄のごとき頑丈な肉体や精神の持ち主ではない。 ただ、その人たちの優れた点は、ひとたび勉強しようと思いたったら、ほかの事を忘れて勉強された。大事なことがあれば小さなことなんか忘れてしまうものである。「学問の道はそれほど重大なので、一生懸命に身につけようと思って少しのあいだにも空しく過ごしてはならぬ」という、非常にきびしい言葉である。 ★ 『疲労と困憊は道にいたる法ではない。苦行によって道に到達するとは迷信である、肉体は強くなくてはならないし、洞見(どうけん)の智は明敏でなくてはならぬ』・・・古言 一般には山やお堂に籠り世間と断絶してひたすら座禅するとか断食して瞑想に耽るとか、その他、あらゆる難行苦行をすることが道に至る近道とされているが、ここではそれらは一切迷信で、悟りを開くためには丈夫な肉体が必要なので食べ物はしっかり摂らないといけないし、真理を見極めようとするならボンクラ頭では駄目で、あらゆる知識の上に立った確かな見識がなければならない、と一喝しているのです。なかなか見識のある言葉ではないでしょうか・・・。 ★ 『終身、道を譲るも百歩を枉(ま)げず』・・・唐書 たとえ生涯、人に譲り続けるものがあっても、まさか百回にもなるまい。ならば、今のこの一回をどうして譲れないのか・・・。
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