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今の若者には晩婚や非婚を流行のように思っているフシがあります。 @ 生活が苦しく住宅がないなど、生活基盤が整っていない。 A 子供を生んでも、うまく育てる自信がない。 B 保育所が不足しているため、仕事と育児の両立が難しい。 C 教育費の高騰や経済全般に対して、精神面の負担が大きい。 D 核家族化が進行し、家庭の魅力そのものが低下している。 E 価値観が多様化しているので、自分は自分の人生を楽しみたい。 などと小賢しい理屈を言うにいたっては、この国の滅亡もさして遠くではないかもしれません。 太陽と地球が互いに引き合う引力の原因は何か。この大きな命題はちっぽけな人間には永遠に分からぬ問題であるでしょうが、少なくとも人間を創造した自然は人間を生かせるだけ生かしたいと思っていることだけは確かである。 それが証拠に楽しむにしてもそうでないにしても、とかく何かと問題の多い性欲を本能の一つとして植えつけてくれているのをみても分かります。それなら自然の意志に反しない生き方をするこそ、素晴らしい人間の知恵というものではないでしょうか。 ★ 『揺木(ようぼく)は危うきに生ぜず、松柏(しょうはく)は卑地に生ぜず』・・・古言 大木は崖の上とか弱い地盤のところには生えないし、松や柏のような価値の高い木は痩せた土地には生えない。つまり立派な樹木はみな、それなりの理由があるところにしか育たない。転じて人間もたとえ外見は立派であっても精神の内容が整っていない親からは立派な子ができるはずがない・・・。 ★ 『石上(せきじょう)に五穀生ぜず』・・・淮南子 岩や石の上に五穀が生えたためしがない。転じて無機質的な頭脳の家系からは立派な人間が生まれるはずがないし、また無機質的な頭脳の持ち主が人の上に立てるはずもない・・・。 ★ 『なにごとも 変わりのみゆく 世の中に 同じ影にて 澄める月かも』・・・古歌 この世は有為転変がつねであるから、どのようなこともみな移り変わって暫しも止どまっていないが、いつの時代も月には変化がないどころか、月本体には曇りがなく、いつも澄んでいる。月に曇りがあると思うのは見る人の目に曇りがあるからである・・・。 ★ 『橘南子(なんし)は生涯身を風流に拗て出でて家に帰らず、四海みな兄弟とし、杖を雲水にまかせて、いたらぬ国のはてもなく、花に暮らし、月に明かし、いそのかみ身はふりにけり ―中略― かくて北越芭蕉中興の祖というならむか、さあれどその姓名利を求めず、竹の破笠(はりゅう)、弧村の雨心、風塵(ふうじん)をさけて、ひとり豊かに浄し。年六十歳過ぎて、かりそめに天の橋立見むと人には告げつつ詠歌一首吟じ捨て、たな引く雲のやすらいに姿は見えずなりけり』・・・都良 橘南子は早くに家督を子供に譲り、自分は一生、風流の世界に身を置いて家に帰ろうとはしなかった。そして人間ばかりか花鳥風月までをもみな兄弟のように愛しみ、いつも行き先を予め決めることなどせず、気ままに旅して、行かなかったところはないぐらいである。 だからときには野宿することもあったのであろうが、そのようなことには一切頓着なく、とうの昔に現実社会から身を退いてしまった。 そうして北越地方での松尾芭蕉の俳諧の道の中興の祖といわれるぐらい俳句の道をきわめたのであるが、べつに偉そばらないし名声を求めるわけでもなく、粗衣粗食の中でざっくばらんな生活をしていたが、60歳を過ぎてから、ある時、「ちょっと天の橋立を見に行ってくる」と言って俳句を一句捻ってから、雲霞のかなたに姿が見えなくなってしまった・・・。 橘南子は良寛の父で、越後出雲崎の名主をつとめた橘屋の当主だったが、家督を良寛に譲り、俳諧の道に入った人である。この文章に見られる南子の風流な姿と画かれた自然の美しさが目の前に浮かぶ思いがするではないですか。 一度は自分も画中の人物となるぐらいの美しい境界(きょうがい)に身を置いてみたいものです。
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