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いまの日本で成功するには、@カネ、A人、Bモノ、C情報のそれぞれが集まらないとダメと言われています。たしかに立志伝中の人物に自分も名を連ねたいと思えば、この四種の神器を持つことかもしれません。 ですがこれにいたるにはよほど恵まれた条件の中に最初から身を置いている必要がありそうで、これ以外の環境にいる人、つまり四種の神器のうちのどれ一つにが欠けても、成功などできるものではありません。 ここに人間の本質を考えるのに一つの方法があります。 つまり、人間はカネや地位をいくら得ても、もっともっと欲しいので、まだまだ死ねないと思いこそすれ、もうこれでいつ死んでもかまわないと思う人は少ないはずです。 人間が自殺以外で死んでもいいと心に決められるのは、国家のために何かとてつもなく大きく寄与できて胸いっぱいの感動や感激が拡がったときだけで、カネやモノで死ねるほど人間は安物・単純には創られていません。つまり、このうえない崇高な精神境地に達したとき、それこそいつ死んでも悔いはないと思える。それが人間です。 ★ 『ひと声も 時鳥(ホトトギス)より 聞きたきは 真(まこと)の道を 語る言の葉』・・・古歌 この歌のように、時鳥の美しい声より真実の道を示す言葉のほうが、どれだけ意義が深くて大きいかが理解できようというものです。孔子が「朝に道を聞けばうんぬん」と言っているのは当然で、人間の本来的な価値は実にここにあるといってもいいでしょう。 ★ 『我らはつねに死の一歩前、むしろ死底闊歩の瞬間に生きるものだ、綽々(しゃくしゃく)たる余裕力がここにある』・・・真渓涙骨 人間の身体は非常に精巧にできていて、目に見えたり手先で触れられる表面的なものの出来ばえや機能の巧妙さから、内部にいたっては、まるで巨大な化学工場のように微細な毛細血管や極微の細胞の端々にいたるまで完全無欠で、しかも精密にシステム化されていて肉体の保持に寸分の狂いもないわけですから、驚嘆するしかありません。 つまり、何千何万とも知れない小さなシステムが互いに横の連繋を密接に保ちながら、一段上の規模のシステムを支え、それらがまた多数集まって一つの巨大システムを構築しているのであるから、普通に考えれば、つねに故障しがちとか止まってしまっても不思議でもなんでもありません。 その考え方に立てば、涙骨が指摘するように、人間はいつも死の底にいるのを知らないで、平気で歩く、つまり生きているようなものであるから、もしそこまで考えが到れば綽々たる余裕力が出てくるのではないでしょうか・・・。 ★ 『凡俗に死を語れば、陰気くさいと顔をしかめられる。死ほど陽気なものはない、死生の境を突破したもののみ明朗に進退できるのだ。死を知らずして何ぞ生の真味を掬(きく)し得るや』・・・真渓涙骨 ★ 『自分のことばかり考え他人のために働くことが馬鹿げている人にとって死は最後である』・・・武者小路実篤 ★ 『死の恐怖を味わうことは、その人がまだ生きてしなければならない仕事が残っているからだ。いま一つは、死以上の生活ができていないからだ。自分の一生を犠牲にしてもいいというような仕事にぶつかっていないからだ』・・・武者小路実篤 人間には死ぬことの恐怖が三つあると言われています。 一つは、死んだらどのようなところに行くのか、そこはどのようになっているかという不安。 二つは、死んだら、もう全く何もないのか、自分の存在が全部、本当に無に帰してしまい何も残らないのかという自己消滅の不安。 三つ目は、小さなときから親や他人から聞かれているように、閻魔様の前に引き出され、生前の所業について裁きを受けなければならないのか、あるいはそれによってどのような罰を受け、どのようなところに送られてしまうのかといった不安が高じて一種の恐怖につながっています。 実篤はそれは死以上の生活ができていないからだ、と言っています。 ★ 『生死を離るるというは念(妄念)を離るるを言うなり、心はもとの心ながら生死を離るるということ、いわれなきものなり』・・・仏経 生死の問題にとらわれないとは、アレもしたいコレもしたい、ああにもなりたい、こうにもなりたい、あるいはあそこにも行きたいし、かしこにも行きたいというような、「したいしたい病」にかかっていない状態でなければなりません。つまり、人間的な妄念をいっぱい持ちながら生死の問題や苦しさから逃れようとしても無理です。 ★ 『生も夢幻、死も夢幻、永遠の大河の如き流れこそ、悠久無限の生命である』・・・近賢
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