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★ 『惜しめども いつかさかりは 過ぎにけり とめくるものは 老いにぞありける』・・・良寛 人間はなにびとも天から公平に1日24時間という時を与えられているが、人によってはこの1日をただ為すことなく送って、わずか数時間ぐらいにしか使っていない人もいれば、営々努力して30時間にも40時間にも使って生きている人がいる・・・。 ★ 『つくづくと過ごせば、ひととせほどだにも こよのう のどけしや、飽かず惜しいと思わば 千歳(ちとせ)を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ』・・・徒然草 毎日のこの一日一日を意義深く、よくよく念を入れて生きていくなら、人生は一年でこのうえもなくゆったりのんびりと送れ、しかも十分な生甲斐を感じて暮らせる。 もし、日常のなにごとにももの足りなく、ああもしたい、こうもありたいとの欲心がいっぱいで暮らすなら、たとえ千年生きたとしても、わずか一夜の夢のような儚い無意味な心地がするであろうよ・・・。 人はそれぞれが置かれた環境や考え方により、それこそ千差万別の日々を送っています。 @ 商売営業に精を出す人 A 会社に勤務して月給をもらう人 B 官公庁に勤め地域に奉仕する人 C 人の健康増進に従事する人 D 夫をして内憂なからしめ家政の維持につとめる人 など、生活内容は枚挙に暇がありませんが、問題はその内容にあります。 兼好は、そんな、 『人事(にんじ)多かるなかに道を楽しぶより気味(び)深きはなし、これまことの大事なり』 人事多かるなかとは、人間関係が多い中という意味。 といっています。 本来、道を楽しむとは仏道に入り修行することで、実業世界から身を引くことを意味しますが、必ずしも実業世界を捨てなくても道を楽しむ(ここでは偏業の世界に入り心身に暇をもたらし、別の角度から改めて人生を考える、あるいは心身洒脱をはかる)ことはいくらでも可能なはずです。 ただ、虚なる側、すなわち実業世界ではない側から世の中全体を見ると、こんどは偏業の世界こそ実であるわけですから、今までの「実」は「虚」に変化するので、生きていくのに必要な金銭を得るためにだけ浮世の実業の世界に身を置いて働き、他面、余暇の時間を虚なる世界(余暇利用の趣味とか、心身洒脱をはかる生き方)のために使うなら、人生を楽しんだり人生の意義を知ることの深さは、また格別のものがあるのではないでしょうか。 ここで、偏業とは、非生産業務のことで、教師・医師、僧侶・宗教家、芸能人・諸芸師匠など。ただし一次産品の流通に携わるもの並びにサービス業は含まない。 ★ 『金銭は得やすく光陰は失いやすし、あに得(う)べからざるの光陰をもって、得難(えがた)からざるの金銭に代うるべけんや』・・・近賢 金銭は働けば得られるものですが、時間は金銭では得られません。そのうえ時間は矢のごとく素早く去っていって再び還って来ません。どうして大切な人生のこの時間でもって、さして得ることの難しくない金銭を得るために貴重な時間を費やすことができましょうか・・・。 また、 ★ 『聖人は尺の璧(たま)を貴ばずして、寸の陰を重んず』・・淮南子 立派な人はたとえどれだけ大きな宝石であろうと、宝石が持っている儚さを知っているから、そのような宝石を大切にせずに、再び得られないわずかの時間のほうをこそ非常に大事なものとするのです。 昔、カネは、「必要な時にだけあったら王者の暮らし」と言って平然としていた人がいるとの話を聞きましたが、この人の前には、いかなる金銀財宝も脱帽です・・・。 ★ 『人は名位の楽しみなるを知って、名なく位なきの楽しみの真なるを知らず』・・・古言 人間はこの世で出世して高い地位についたり人が羨む名誉を手にすることを誰もが願うものですが、無位無冠(地位もなければ名誉もない)の生活こそ本当に人生の幸せであることを知らない人が多い。 つまり、地位も名誉を得ればそれだけ煩わしいことや争いごとが増え、日夜心身が休まる時などなく、そのうえ地位や名誉を維持し続けるのに非常な苦心をしなければならないからです。それでもなお、愚人が財をむさぼるのは、たとえば蛾が好んで火に近づくようなものであると喝破した人もいます・・・。 これらはそれぞれ、時間の浪費やカネやモノの獲得に浮き身をやつすことの味気なさをいましめたものです。
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