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★ 『知恵者やヤリテになるより、暖か味のある人間になれ』・・・近賢 知恵者やヤリテは逆に人から敬遠されたり嫌われる。それよりも穏やかで暖か味のある人間になるならば人が集まる。人が集まれば必然的に情報が得られるし、情報が得られれば必然的にカネ儲けの話が増えるし、カネが儲かれば必然的にモノが集まる。 カネばかりがすべてではないが、少なくともカネのあるなしが左右する世の中なので、その意味での幸福が得られるというものである。いくら知恵者やヤリテでも人が集まってくれなければ何にもならないではないか・・・。 ★ 『情熱なきものは善人にも悪人にもなれぬ』・・・古言 自分は何も悪いことをした覚えがないのに良い運命に恵まれないと嘆く人は多い。ですが、何から発奮して推進したことがあるかと聞けば、それはないと言う。それでは発展できるはずがないではないか。 この世は神仏を相手に生きているのではない、すべて生身の人間を相手にして生きていて、その中で他人に比較して自分が幸福であるかどうかで生きているのであるから、悪いことをした覚えがなくても少なくとも何かを自分で企画して世の中という大海に乗り出さなければ、幸福も何も得られるものではない。世に貢献するということは必ず人を得、カネという対価で集約されるようになっている。 それが現代社会の基本的な約束ごとの根本である。したがって、世の中に何ひとつ貢献したことがない人物は、たとえ悪人でなくても、世の中のカスであるとも言えるのではないか・・・。 ★ 『隠徳は積んで栄え、悪徳は積んで滅びる』・・・仏語 陰徳は本来、隠されるものであるのに、人助けとか寄付とかボランティアの押し売りとなって白昼堂々と行われる。これでは陰徳を積むのではなく恩の押し売りである。悪徳は他人に公表して笑ってもらうべき性質のものであるのに、人の目の届かないところ、あるいは深夜密かに行われる。 これでは黒い芽が出、黒い葉が出、黒い花が咲き、黒い実がなるのは当然ではないか。すべて陰徳は深夜密かに土中深くに埋めて人目につかないようにし、悪徳は白昼道路に放り出して人に笑ってもらって消滅する・・・。 ★ 『自ら骨を砕き心を破るとも心に従って悪をなすなかれ、力士のみを多力といわず、自ら心を正しくする人はむしろ力士にまさる。仏は長時にわたって心と戦い、敢て心に従わず、怠りなく励んで自ら覚者となれり』・・・仏語 修養するのには根性が必要である。根性と力は本質的に異なる。ゆえに力士は必ずしも根性のある人ばかりとは言えぬ。それよりも永く休まず修養に心がける人は力士に勝る人であると言える。古の聖人もみな、長い期間にわたって自分と戦い、自分の心の中に潜む欲望に屈しなかったからこそ、今の世に名が残る人となった・・・。 ★ 『世の栄華に憧れ心を乱しながら悟りの道に入るは難し、世を楽しむことと道を求めることとは自ら別なり』・・・古言 大きな邸宅、立派なクルマ、豪華な服装、贅沢な食べ物などに憧れたり、それらの獲物に振り回されていて、どうして悟りなどという立派なことができようか。豪華な生活を楽しむことと悟りを得ることは初めから別である。 とくに人の道を説く人にこの傾向が高いのは末世のゆえか。なお、生活を楽しむことと人生を楽しむこととは本来、別物である。なぜなら、質素な生活をしていても清高で志が大きければ、余裕しゃくしゃくたる人生が送れ、たとえ贅沢な生活をしていても心が貧しければ尽きるところのない欲望に苛まれ、汲々とした人生を送らなければならないからである・・・。 ★ 『弥陀の五劫思唯(ごごうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり』・・・親鸞 阿弥陀仏の教えをよくよく勉強したり考えてみると、なんのことはない。すべて自分に対して言われたことであって、他の多くの人のために説かれた教えではないことがよく理解できた。だから今日からは偉そうなことを人に言わずに、自分独りの胸にしっかりと秘めて、これからの人生の糧にして行こう・・・。 この言葉に従うと、古言や古歌というものは、自分ひとりのために説かれたものであるとの自覚に立つ必要がありそうです。 ★ 『心炎意火を去り、小智才覚、一切の理想・欲望、野心・執着を放下(ほうげ)し、そのままの心になれ』・・・古言 自分の心の中に渦巻く妄念の数々、小賢しさ知恵や自分だけが独り合点で評価している大したものでもない自分の才能、それにわずかな人生経験から得た人生観や欲望と野心と執着を全部放り投げ、生まれたまんまの童心に還って堂々と生きていくのがよい・・・。 ★ 『心こそ地獄と極楽の作り手である、心の奥の心宝(しんぽう)の光を隠す心上(しんじょう)の雲を吹き払え』・・・仏語 人間には日ごろは気づかない無意識界の中に悪意に満ちたドロドロとしたものがいっぱい溜まっていると考えられる。これが性悪説でいうところの心上の雲である。そして悲しいかな、性善説でいうところの純粋無垢な心はこの下にうごめいている。 うごめいているというのは、機会があれば(気の毒な人を見たり、気の毒な話を聞くと)、いつでも我知らず同情心とか憐憫(れんびん)の情が起ころうとする状態にあることを言う。しかしそれがただちに行動という形になって現われるかどうかは当人の人生観や勇気によって異なる。 したがって、とりあえずはこの純粋無垢な心の上を覆う悪性の雲を吹き払う努力を倦まず、たゆまずするかどうかで地獄行きか極楽行きかが決まる。げに心すべきは不断の努力ではある・・・。
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