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私たちの老いは、そんなに先にあるのではなく、いまこの瞬間のあとにあるものです。少なくとも中年以上の年配になれば男女を問わず、この問題は遠からず切実なものとして我が身に迫ってくることを覚悟しなければなりません。 ★ 『歓娯を火急にして謹んで遅るるなかれ、眼の辺り老病を見れば悔ゆるとも追い難し』・・・古言 歓娯とは本来は歓楽や娯楽のことを指しますが、ここでは一般世間人がする意味です。だから、歓楽や娯楽も含まれますが、それ以上に人間としてするべき事や務めを意味すると解して、それらを人並みにすることが大事で、けっして怠ってはなりません。自分が老人になったり、永の病に冒されてから悔やんでも、もう遅い・・・。 ★ 『金縷(きんる)の衣は再び得べし、青春は再び得べからず』・・・古言 金銀の糸で織ったつづれや綾錦(あやにしき)の着物はいくらでも買うことができるけれども、過ぎ去った青春の日々は呼べど呼べど二度と還ってくるものではない。だから、今の時を非常に大切なものと思って暮らさなければならない・・・。 壮年会極佳妙地・・壮年、会(え)し極む佳妙の地 老来頻動遍舟興・・老来、頻りに動ず遍舟(へんしゅう)の興 良寛 壮年時代には気ままに諸国を漫遊し、それはそれは良いところを旅したものである。年齢を重ねた今はそのいずれもが懐かしく、再度、そのような旅をしたいものであるとの気持ちが強く自分の心を動かす。再び還らざるは青春なのか・・・。 【定年間近な人への提言】 人生は基本的にゲームの一種と思えるところがあります。 そう考えますと、今後の人生をどのような戦略で臨むのかという対策が必要になってくるでしょう。 大体、人生そのものが始めから最後まで自分の思い通りにならないゲームだから、これに勝つか負けるかは、いつにかかって戦略しだいです。とくに野球でいうなら7回からの終盤だから、ここはいちばん、ゴールを目指して知恵の出しどきというもの。監督(自分)の采配一つで栄冠を勝ち取り笑うか、泣くかの二つの一つです。 しかし、この対策は難しいものでもなんでもなく、要は覚めた目で自分を見られるかどうかの点にあります。 ★ 『生を視る死の如く富を視る貧の如く、人を視る豕(いのこ)の如く己を視る他人の如し』・・・列士 人生の奥義はこの古人の言葉にあります。 このように果てして自分を見ること、他人の如くになれるかどうかが問題で、とにかく大事な時期のことであるから、冷静に自分を見つめ戦略を考えなければなりません。 もし覚めた目で自分を見られるのなら、人生はゲームであり、生き方は戦略であるという意味が理解していただるはずです。 それでは自分のこれからの人生をどのような戦略で臨むかについて、少しばかり提案できるとすれば、次のようなことが可能かもしれません。 @ ワープロに親しんで長時間かけて自分史を編集する。いつまでに仕上げなければならないという取り決めはありませんが、できるだけ早いほうがいいでしょう。 A ワープロの基礎がマスターできたら文章作りに挑戦する。 B 自分の身についた特技、たとえば囲碁とか将棋、ゴルフとかテニスなど何か特殊なものがあれば自分で教室を開く。 C 自分の好きなカルチャー教室に通い、将来、それを人に教えるとの意気込みで懸命に勉強する。 D 植木を最低三百鉢ほど世話し、一人前に育てる。 ここまでは相手から金銭をいただくもので、ボランティアであってはいけません。 なぜなら、それらが少しでもお金になると励みにつながり、欲が出て自然におもしろくなるからです。 E 同僚か近所の人に声をかけ、同好会的な何かを開催する。 F 手近な山から登りはじめ、ついには日本の百名山を目指す。 G カメラをぶらさげ、町なかの郷土史的なものとか風景を撮ったり郊外に出て自然美を撮る。 H 陶芸、木工、書画などに親しむ。将来は入選を期すことを決意する。 I 旅行も悪くはありませんが、あとで思い出にふけるなどして後向き姿勢になることがあるので、必ずしもお勧めはできません。 など、そのほかいくらでも戦略肢があるはずであり、それらを十分に駆使し活性のうちに、「日々是好日」の楽しみを楽しんでみられたらどうでしょう。 とにかく家に引っ込んでいずに、外に出て社会とのつながりを死ぬまで積極的に求めることに意義があります。
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