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『幸福といえば煩わしい出来事が少ないのにまさる幸福はなく、不幸といえば欲望が多いことにまさる不幸はない』・・・古言 幸福とはまさにこの言葉の通りで、運勢が全般的に安定しているとかいないとかが最重要で、一般世間で考えられているように、 @ 収入が増えた。 A 地位が上がった B 名声を得た。 などの一見、運勢が好転したのではないかと思われる事柄も、裏を返せばいずれ未来に反動が起こらないともかぎりません。 また当然のことながら身辺は多忙になるし、人間関係の複雑さが増すし、心身の煩わしさが増加するなどの件で、カネや地位や名誉を得ることが必ずしも幸福の到来とばかりに手放しで喜んでおられないのです。 それより、『人間、万事塞翁(さいおう)が馬』のたとえのごとく、それらが吉なら凶に、凶なら吉に変化する可能性はいくらでもありますので、人間の幸福とは本来的には長期安定型幸福が最大福なのです。 そしてそれに併せて天の恩、地の恩、親の恩、配偶者の恩、社会の恩、その他自分を取り巻くあらゆる人間関係の恩などを心の奥深くに感じるべきで、もしそのような気持ちのない人には、『呉(く)れ呉(く)れ坊主にゃ、やりともない』のたとえのように、ついには天に見放され孤貧(孤独で貧乏)のうちに一生を終えなければならないでしょう。 ★ 『禍(わざわい)は妄りに至らず、福は徒(いたずら)に来たらず』・・・史記 禍は理由がなくして来るものではないし、福も理由がなくして来るものではありません。それぞれにそのようになる原因がすでに潜んでいるのです。 これが仏(仏教)でいうところの因あれば果なかるべからず、果あれば因なかるべからずです。 すなわち、それなりの原因があるからこそ、その結果があるのであり、そのような結果になるのにはそれなりの理由がある・・・。 禍が来るのには、すべて正当で厳格な理由があると、この聖賢は言っています。 @ 恩に報いる気持ちがない。 A モノに感謝の気持ちがない。 B 親や上司を尊敬しない。 C 何でも喜びの気持ちがない。 D 人の言葉を素直に聞き入れない。 こう、ないないづくしの人間では、誰だって、「あいつに、これを頼もうか」、「あいつに、これをしてもらおうか」という気持ちになれるはずがありません。 禍福の問題は結局はみな、この浮世で起こることですから、浮世で起こるすべてのことは人間関係の中で起こると解釈していいわけですから、周囲から孤立する条件を持っている人、たとえば、 @ 内向的で消極的な人 A 陰気くさい人 B 出しゃばりで自惚れが強い人 C 同情心のない人 D 他人のことには無関心な人 E 自分の考えを正確に相手に伝えられない人 F 相手に合わせられない人 G 卑屈な人 H 視野が狭い人 I 愚痴や陰口が多い人 などなど、この性情の人には禍が多く、この反対の性格の人には福が多く訪れるものです。 ★ 『善敗(ぜんぱい)はおのれによる、人によらんや』・・・左伝 善敗(運命や運勢の善し悪し)の原因はすべて自分にあって、それらは一見、他人から害を受けるように見えますが、事実はそうではない・・・。 人生の禍福についてこの古言はまさに当を得ています。だから、私たちはそうした厳粛な事実を踏まえ、今までと違った新しい生活方針を立てないことには運命の好転などありえず、幸福な生活など、およそ百年河清を待つにひとしい日々を覚悟しなければなりません。 ただし、上記の10か条に適合する人でも、何かひとつ、他人に優れた特殊な才能とか素質のある人は、それによって社会的に名声を博す場合はありますが、その件以外のことについては禍が訪れる可能性は否定できません。
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